駿河療養所開設経緯

 駿河療養所は昭和20年6月に傷痍軍人ハンセン病施設として開設され、多磨全生園より二次にわたり9名、邑久光明園より25名、長島愛生園より2名、菊池恵楓園より3名、松丘保養園より2名、東北新生園より1名、近隣陸軍病院より2名、計44名が「療養所建設に耐えうる比較的元気な者」との入所条件で、文字通り終戦間近の国民総窮乏生活のなかで建設部隊として駿河の地に大きな希望と気概を抱いて開拓のため入植され、今日の駿河療養所の礎を築いてこられました。開所当時は設備不足、食料不足、建設のための重労働と農園開拓等、物資不足と厳しい労働条件を強いられ、療養というより文字通り建設のために入所されました。開所当時の入所者は、あまりの過酷な環境のために出身園に帰るか、また、他の療養所に転園することなどを真剣に考えたと記録にあります。今日の駿河療養所は、まさに血の滲むような先輩たちの建設に携わられた苦労のもとに築かれたものです。以来63年が経過いたしました。現在の駿河療養所の建物、生活環境、医療環境、福祉環境、どれをとっても当時を偲ばせるものはありません。私達の平均年齢は既に78.9歳、入所者数は111名(平成20年9月1日現在)となりました。富士山が茜色に染まり夕陽がまさに富士山の彼方に沈まんとして神々しく輝いている。それが現在の駿河療養所の姿のように想われてなりません。今後、時間の経過と共に茜色はやがて薄墨色となり、ハンセン病療養所としての終焉が日々近づいております。熊本判決確定とその後の厚生労働省との協議で、全国13の国立ハンセン病施設は将来に亘り存続されることとなりました。入所者が減少するなかで、いかに駿河療養所が地域の皆さんが利用でき、あわせて地域の皆さまに納骨堂をまもっていただきながら、この施設が市民の集う交流の施設になることを希望しています。
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