1941(昭和16)年の「らい学会」において傷痍軍人らい療養所を設置することが提唱されました。場所決定には、いろいろと問題はありましたが、最終的には軍事保護院の通達により神山復生病院の3km以内で決めることになり現在地となりました。
建設は戦時中のため建築資材の不足と同時に人材も足らず遅々として進みませんでした。

1944(昭和19)年12月に完成したと記述されてはおりますが、実際には病舎の窓にはガラスが半分しか入っておらず、現代の感覚で病棟と呼ぶには程遠い建物一舎と事務所だけがありました。

1945(昭和20)年6月10日に名古屋の陸軍病院より患者1名が収容された事により療養所としての出発を切り、終戦時には2名の入所者が居ました。建物等なにもかも未完成の療養所をG・H・Qが接収するのではないかと不安を感じながら、他の国立ハンセン病療養所入所者の「傷痍軍人にして健康度の高い者」を療養所建設隊員として募集しました。傷痍軍人らい療養所としての処遇に期待して応募してきた人も少なからずいたのですが、現実はゼロからのスタートであり何もありませんでした。募集していた人員も復員兵を含めた44名に達し、ようやく療養所建設が始まる事となりました。農作物を作り自給自足の生活を送る療養生活の中で、所長任命の世話役制度から自治の意識が芽生え1948(昭和23)年11月1日に自治会「駿河会」が誕生し、駿河の基礎が築かれる事となりました。今の駿河が存在していますのも長年に渉り先輩諸兄姉の努力の賜物と感謝しております。更に言えばこの間にも、強制隔離の損失補償を基本に添えた全療協運動に呼応し、支部でも決起集会等を開き人権問題・処遇改善等の要求をしてきた成果も実り今日の療養所が築き上げられました。

入所者数も1950(昭和25)年の一年間に123名収容されたのを最高に、以後数年間は毎年50名前後が収容されました。1956(昭和31)年入所者が471名を数えたのを頂点に1964(昭和39)年に400名をきり、1977(昭和52)年300名、1998(平成10)年に200名、2000(平成22)年100名をそれぞれ割り込み、2015(平成27)年5月には64名となりました。平均年齢も83.3歳となり、最高齢は104歳になりました。2015年中にすべての入所者の年齢が65歳以上となります。

1996(平成8)年に「らい予防法」が廃止され1998(平成10)年に「ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟」を提訴し2001(平成13)年5月11日に熊本地裁で歴史的判決を聞き多くの人たちが「人間として」堂々として生きていけると感じたことと思います。国においても在園保障として「最後の一人まで希望するところで面倒を見ます」と約束をしてくれました。しかしながら地域から2km離れた山間地にある駿河療養所は地域との共生を考え地域の人達の入院診療を受け入れる事で将来構想を考えていくと言う新たな一歩を踏み出しました。この決断には今後、難題が多く出る事も予想されますが、一つ一つクリアしながら安心して療養生活が送れる事と同時に終の棲家になりえるよう、多くの皆様方にもご協力をお願いしたいと思います。
駿河会会長 小鹿 美佐雄
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